家業を継いだ時の話とこれからのこと|大青鉄工の未来への想い

ここから先は、ボク自身の個人的な話しなります。 
興味なければスルーで。w

前職時代のことの前に…

ちょっとお聞きしたいんですけど、
皆さんは〝工業高等専門学校(通称 高専)〟
という学校をご存知ですか? 

〝高専〟というと、「専門学校ですか?」
とよく聴かれるのですが、
高専は専門学校ではなくて、
工業についての専門的な知識や
技術と言ったことがらを
5年間学ぶという高等教育機関です。

5年間で大学課程な授業まで受けるという
感じです。 

ボクは、中学の卒業後の進路として、
普通高校ではなく工業高等専門学校(高専)の
機械工学科を選びました。 

なぜ、高専を選んだのか? と言えば、
半分は親の意向と、
半分は高専というところに興味があったから… 
です。 

手前味噌なのですが、
高専の受験は倍率も高くて、結構難しいのです。 

なので、受験前にはかなり勉強しましたよ。笑  
猛勉強したお陰で、なんとか合格することができました。 


… 今の高専は5年間学んだあと、
就職をはじめ、専攻科とか大学編入とか
色んな選択肢があります。 

特に、大学進学を目指すのであれば、
受験をせずに【大学3年へ編入】ができるので
すごいメリットがあると思います。 

どっちを選ぶ?

ボクが高専4年生くらいの時に
父親が独立起業しました。 

ちょうど、
高専を卒業してからの進路について
考えていく時期でもあり、

学校を出てすぐに親元を継ぐか? 
それとも就職するか? 

ということで少し悩みました。 

ちなみに、
高専では大学編入制度というのがあって、
希望する大学の3回生へ編入するという
進路もあります。 

が、ボクには編入する頭もなかったんで、
就職するという進路をとりました。w 

就職のことで担任の先生に相談すると、
『いずれ辞めて家業に就く』ということで
就職活動すると企業側が嫌がるのではないか? 
と言われました。 

だから、就職するのか家業を継ぐのか?
をしっかり決めるようにと。

たしかに、企業側からすれば
『いずれ辞める』人を採用するのは
面白くないですよね。 

なので、
他への就職を希望するなら
継ぐということは伏せて活動した方がいい
とのことでアドバイスをもらいました。

もしかすると、
親が経営者である場合、進学か就職か? 
で、その選択を悩む場合が多いのだと思います。 

ボクの場合でいうと、
すぐに親元で就職しようと思わなかった
理由が3つあります。

まず、理由の1つ目は、

父親は根っからの職人であり、
「会社組織」という中で働いた経験がなく、
もし、卒業してすぐに親元に入れば、
ボク自身も親父も確実に世間知らずに
なってしまうと思ったこと。 

会社という組織を知ってる知ってないとでは、
経験値がかなり変わると思ったんです。

2つ目の理由は、

すぐに親元に入ってしまうと
仕事の時間のみならず、
四六時中親と一緒になってしまい、
息がつまりそうだと思ったこと。 

独り暮らしという考えはなかったので、
ず~っと親と同じ生活を余儀なくされる… 
という考えが先行しました。 

親との仲は悪くはないんだけど、
家でも会社でも、ず~っとというのは
どうなんだろ? って思ったわけです。

干渉されるのも嫌だったんで。w

3つ目。

家業では出逢いもなく、
プライベートな楽しみも薄くなってしまう
と思ったこと。 

… これが一番でかかったです。笑 

こと、当時の高専は共学と言えども
機械での女子率が限りなくゼロ。 

自分からどこかへ出向かない限り、
出逢いもないという… 

就職すれば、会社内はもちろん、
通勤途中とか、会社同期の紹介とか… 

出会うための色んな選択が
あるんじゃないか? 

って思ったんですよ。   

なので、一旦は就職して
外の世界に触れてみようと思ったのでした。


どんな職種に就こうか、
どういう仕事がいいのか… 

募集先のパンフレットを見てると、
おもしろそうな会社を発見!

進学ではなく、就職の道へ。

高専というところの求人倍率は高くて、
就職率はほぼ100%なのです。 

こと、その当時は、バブルな状況がまだ、
かすかに活きてた時代背景でもあったので、
募集してくる会社も割といい条件のところが
多かったです。

あと、高専には
〝先に言うたもん勝ち〟という習わしがあって、
つまり、行きたいという会社あれば、
そこへ先に立候補した人に優先権がある
という仕組みになってるんです。 

要は、
同じ会社へ同時に2名以上は就職できない
(例外はありますが。。)という
暗黙のルールがあります。

半導体という分野へ。

幸い、ボクが選んだ会社は、
ボクしかいなくて。w 

そこは、
半導体を製造する会社(工場)でした。

当時、半導体っていうのは、
日本の基幹産業になる…かもしれない分野で
鉄工メーカーがこぞって、参入してたんです。

ボクが選んだ会社も、
そんな中のひとつでした。

就職活動中に、伺った際には、
まだ、プロジェクト室という名前で
会社を立ち上げる前段階だったのを覚えてます。

できたばかりの会社… ということで、
少しのリスクも感じたのですけど、
【1期生】というのは
なかなか経験できるもんじゃないよなぁ

っていう気持ちの方が勝って、
そこへの入社を決めたのでした。

というわけで、
新しくできた半導体製造会社に
〝1期生〟として入社することになりました。 

どの部署へ入ろうか?

入社して、一通りの研修を終えたのち、
システムの部署に配属され、
システムエンジニア(SE)として
活動していました。 

配属の決め方は、自分の志望によります。

まず、
なんでシステムエンジニアを選んだか?

半導体の製造には、
さまざまな専門知識がいるんです。 

例えば、半導体そのものの物性であったり、
また、化学的な知識とか、物理学もそうだし、
工学的なことも。 

ボクは、半導体の〝は〟の字も知らなくって、
この会社を知って初めて半導体を
知ったくらいでした。(^_^;) 

でも、同期の連中は、大学時代にその道で
学んできた人ばかり。 

ボクにはそんな知識もなくて…  

知識はその部署に就けば
なんとかなるかもしれません。 

でも、
専門的な部署に就いてしまうとことになると、
その場所、その箇所しかみれないのかな? 

って思ったのと、どうせなら
『全体を見渡せる部署がいいな』と考えもあって
システムの部署を志望したのでした。

システムエンジニア(SE)として

SE時代に何をしていたのか?
というと…

半導体製造のことについて、ちょっと余談。

半導体って、
いろんなプロセス(工程)を経て、
製造されるんです。

工程をストレート(一直線)に進んでいくのではなく
行ったり来たりしながら、
処理が進められていくという感じ。

同じ装置であっても、工程ごとに
レシピ(処理条件)を変えて、
処理されるという形です。

で、その製造には、
プロセスごとにさまざまなメーカーの
装置を使用します。 

製造装置からは、たくさんのデータを
取得することができ、
そのデータの蓄積が重要になるんです。

処理を進める過程では、
各装置から得たデータを使って、
次回の処理につなげるということをします。

その当時。

処理データは手書きで記録していく
ということが主流でした。 

「トラベラー」という記録用の伝票を
処理する製品のケースにくっつけて、
処理が終わるたびに、スタッフが処理内容を
書き写していくというやり方です。

むろん、手書きなので
書き取りミスなども発生しやすい状況でした。

それがコンピュータを使ったシステムに
移行され、通信(オンライン)で自動的な
データの取得が可能になったんです。

SE時代の役割

処理データを効率的に、円滑に得るために
オンラインで処理するということが
必要不可欠であって、

SE時代のボクの仕事は、そんな
オンラインの仕組みをつくり、現場へ
リリースさせていくことでした。

また、
オンライン化でのもう一つのメリットには、
オペレーションの簡素化というのもありました。

繰り返しますが、
半導体製造では、いろんなメーカーのいろんな
装置を扱います。

すなわち、操作方法がバラバラなんですよね。 

製造スタッフにとっては
いろんな操作を覚える必要があって、
作業がものすごく煩雑になってしまうのです。 

操作ミスを起こしてしまうと、
数百万、数千万、それ以上の損害がでてしまいます。 

これらの問題を改善するため、
オンラインシステムを構築して、
オペレーションを統一化して、簡素化し、
作業負荷を低減させるという役割も担っていました。

また、オンライン化することで、
装置からはコンスタントにデータを得ることが
できるので、そのデータを活かして、例えば、

処理レシピへの
フィードバック・フィードフォワード制御や、
装置の稼働率を可視化するシステム、
また、アラーム(エラー)履歴を蓄積して、
装置メンテナンスに役立てるというシステムの
開発なども行っていました。

これって、今でいうところの DX
(デジタルトランスフォーメーション) 
ですよね。 

振り返れば、
DXのハシリをやっていたってことです。w

インターネットの始まり。

インターネットが世間的に認知され始めたのが
Windows95 が出始めた頃だったと記憶してます。 

ボクが入社したのは
それ以前の90年代初頭だったので
インターネットが世間に出始める前にあたります。 

当然、
そういった技術はアメリカ発の物も多くて、
そういう意味では入社当初から最先端の技術で
仕事ができたというのはすごく幸運でした。 

インターネットが世間的に使われる前に
社内では、LAN(ネットワーク)環境が
整備されていて、アメリカとのやり取りは全て
電子メール。 

なので、その当時から
ごく当たり前に電子メールを使っていました。笑 

SEをしていてよかったのは、
物理的なネットワークの構築はもちろん、
ソフト上でのインストールやセットアップ、
管理など、全部経験できたことです。 

コンピュータやネットワークに関する知識を
「タダ」で学ぶことができたっていうのは、
すごくラッキーでした。笑

これらの経験が、辞めた後の今に繋がっています。

振り返ってみれば、SE時代では、

【人】【物】【情報】の流れを
如何に捉え仕組み化していくか? 

ということを実践を通して学べたと思います。

余談なんですが、
会社は、半分外資系だったので、
仕事でアメリカに行く機会もあり、また、
会社組織としてもそれほどキツクなく、
有休もとりやすい環境でした。 

ダイビングを始められたのも、
なかば、そんな環境のおかげですよね。

公私とも、
かなり有意義な時間を過ごすことができました。 

ちなみに、家内と出会ったのもこの会社のおかげです。 
いわゆる、職場婚… ってやつです。w


家業の道へ。

サラリーマン生活に一区切りをつけ、
家業を継ぐべく、親元に戻ったのが
2000年2月。

ミレニアムな年に向かう2000年の頃
といえば…

ちょうど、
ノストラダムスの大予言とともに、
〝Y2K問題〟がホットな話題になっていた頃です。

ちなみに「Y2K問題」って、
知ってる人も少ないのかもしれませんね。苦笑

Y2K問題。

Y2K問題って、何か? っていうと…

西暦が2000年に変ることで
コンピュータに誤作動が起きる… かも?
と言われていた問題のことです。 

その問題が起こると言われてたのは
西暦の扱い方に起因してます。

それまでのコンピュータソフトでは、
日付の扱いを西暦の下2桁を使って
表現していました。 

例えば、1995年10月01日なら、
951001」みたいな感じです。 

で、2000年になると、下2桁が
「00年」という表記になるため、

これが〝1900年〟なのか、
〝2000年〟なのか? 
わからなくなってしまう… かも?? 

ということが懸念されたのです。 

プログラム処理の仕方によっては、
例えば、データベースなどでの場合、
記録上の時間が、

00年なので、本当は2000年が、
1900年と認識されてしまうという
可能性があって、
データの整合性がおかしくなってしまうのでは? 
と言われていたんです。

時系列に記録されているはずのデータが
狂ってしまうとなれば一大事です。

これは、処理データを時系列に記録している
半導体製造装置でも同じことが考えられる… 

というわけで、
問題が起きるかどうかのチェックと
その対応が当時のボクの担当でした。

いちお、一通りの確認を済ませ
区切りをつけたところで会社を辞めたのでした。

戻ってきました… で、自分の居場所は?

家業に就いて、しばらくは
分野が全く違っていたので何もかもが新鮮… 

というより、
正直なところしばらくは困惑の連続でした。
(汗) 

一応、高専では機械工学を専攻して
習ってはきたものの、学校でやってきたことと
実際とでは当然ちがうわけで…。 

やってみたい、やりたいことも、
技術が伴わないのでままならず。
(A;´・ω・)アセアセ

前職ではいちお、
ある程度は自分の差配で仕事が
できていたのだけど、

親父からは
〝あれやっとけ! これやっとけ!〟と、
まるで雑務のような仕事ばかり。 

まぁ、当然と言えば当然なのだけど。

自分で判断できないというのが、
ものすごく歯がゆくもあり、嫌でもあり…。 

一番嫌だったのは、親父の仕事仲間の方から

この仕事、にぃちゃんに
やらしたらええねん。

と言われたこと。 

それを言う相手に悪気はなかったのだと
思うんだけど、その当時のボクは
『仕事に対するモヤモヤ感』が強くて、

なんで、上司でもないあんたに
オレの仕事決められなアカンねん!
勝手に決めんなや!

なんて、思ったのでした。 

なので、その当時は

 何で帰ってきたんやろ?
 何のためにここにいるんやろ?
 前のまま仕事してたら今頃は…?

と思う日々がしばらく続いていました… 

いや、正直なところ数年間は続いていましたね。 

仕事に対する前向きで明るい将来像や
希望というより、
後悔に似た感情方が大きかったような気がします。
(^_^;) 

そんな感情があっても、
嫁さんには相談できずにいました。

なんでか?
っていうと、家業へ就くことをあまり
好意的に受け入れてもらえなかったから。

長男が生まれて、
ほぼすぐ位だったこともあったり、
彼女からすれば、今じゃなくてええやん…
っていう気持ちが大きかったみたい。

それを遮るように、こっちにでてきた。
なので、彼女の前では弱音や愚痴は吐けない…

サラリーマンの頃は、
ある程度自分の好きなようにやっていて、
自分の立ち位置、居場所も確保できていたのに、
帰ってきてからはなんだか自分の居場所が感じられず…。 

それに、仕事の面でもう少し加えると、
以前は〝お客さん〟の立ち位置、
要は、使う側の立場で仕事をしていたのが、
逆転しますよね。 

となると、客によっては
理不尽なところもあるわけで… 

その面をみてると、
なんだかなぁって思ったのです。 

「自由がない」
という感情の方が強かったですね。 

で、当時というか、今もなのですけど、
親から指図されずに独りでできる事と言えば
パソコンくらい。 

なので、
パソコンに向かってる時が一番落ち着くという。
笑 

家業に就きだして真っ先にやったことは
社内のネットワーク(通信)環境を整えて、
電子メールを使えるように整備し、
ホームページを自作するいうことでした。 

それで、なんとか自分の居場所や
モチベーションを確保してました。

今でこそ当たり前なのですが、
その当時の町工場の主流は依然として電話とFAX。 

電子メールやホームページも持ってるところが
すごく稀で先端を走ってる感じでしたよ。笑 

そんなある時、転機がやってきたのです。


転機がきた。

親父は独立当初より、
機械の設計は外注に頼むというスタンスで
仕事をしているようでした。

当初は外注任せな図面。

頂いた案件についての方策やアイデアは
こちらで考えるのですけど、
詳細な設計にあたっては、
どんな些細な案件でも外注先の設計屋さんを
呼んできて、打ち合わせして、

『こんな風なやり方で
対応したいのだけど、図面描いて!』 

と依頼するというようなスタンスで
仕事をしていました。 

打ち合わせの段階で、設計屋さんには
製作にあたっての予算を踏まえ、
こちらの希望をお伝えするのだけど、
概ね、
部品点数が多くなる傾向があったんです。

シンプルな構成にできるはずが、
なぜか、部品点数が多くなる構成で
図面があがってくる… 

それには理由があるようで… 

穿った見方をすれば、
彼らへの対価は図面の枚数で決まっていて、
部品点数を多くする方が、その枚数も増えて
工数もあがるのです。 

それに、ある時には、

『これはどうやって加工するの?』

という、加工のことや組み立てのことを
全く考えていない図面が混じることも
ありました。

納期がある場合には、こちらもチェックが
できるんだけど、だいたい、納期がないので
図面のチェックもままならないままGo。

で、そういう時に限って、
高めの器材が選ばれているというね…

部品点数が増えるということは、
その分、加工や組み立てに関する手間も増えます。

となれば、
それだけ製作コストもかかるというわけです。

設計屋さんに支払う設計費に加え、
設計屋さんが提示したパーツリストでの
購入品類と、加工品への経費。

それにプラスして、制御が外注なので
その支払いと。

もろもろを合わせると
時には、見積もりした予算よりも
製作費の方がオーバーしてしまうようなことも。
苦笑

かつ、親父の考え方が、
自分が作業した分が利益だという考え方。

だから、そもそも見積もりには
売り上げに対する利益の割合なんて、
考えてもなくて…

そんなこんなで、

『今回の設計費は結構かかったな。』とか、
『なかなか良い感じに仕上がったな。』とか

などと言いながら、都度、製作案件に
向き合っていたのでした。

自分で図面を描きはじめる決意。

そんなある日、
とある案件で事件が起きた。

図面通りに組み立てて、配線を終え、
さぁ動作確認! と言う時に、それが発覚した… 

なんと! 

定位置で停止しなければならないのに、
停まらないという問題が起きたんです。

どれだけ調整しても治まらない。

モーターが悪いわけでも、
制御が悪いわけでも、ない。

原因は、設計屋の設計ミスで 
部品の選定ミスによることだったんです。

停止精度が必要な装置で、
そこが正常に機能しないと機械として成立しない… 

これは本当に致命的でした。 

しかも、納期がない!  

でも、その時の設計屋には悲壮感もなく、ただ

部品、ミスしてたみたいで
すんませんでしたな

っていう軽い謝罪のみ。 

まぁ、
謝られたところでその問題が解決するわけでもなし。 

代替えの型式を伝えられるも、
納期も予算もないし、当然、
彼が弁償してくれるわけでもない。 

結局、費用も、作業の労力も、
被るのはこっち。

おまけに…
その時は高い購入部品が全般的に使われていて
納期がなかったので、チェックせずに購入。

みごと、大赤字な案件となったのでした…  

でね。
そんな状況であっても、設計屋さんからは
当然のことのようにしっかり請求書が
送られてきました。 (涙)

設計ミスによるディスカウントなんて、
皆無。  

その時、
こんなことが頭の中に湧いてきたんです。

よくよく思えば、
設計を外注に託すということは
製作に係るコストコントロールもしづらい。 
で、
そもそも、設計を外注するということは、
外部に自分たちの技術の根幹やノウハウを
握られてしまうということだ。 

しかも、こちらが要求を出したとしても、
購入コストの部分まではあまり意識してくれない。

加工のしやすさや、
組み立ての都合まで考慮して
図面を描いてくれる人なんて、ほぼないよな…

もっと突き詰めれば、
うちとしての〝設計思想(ポリシー)〟が
薄らいでしまう気がしたんです。

アイデアを持っていたとしても、
「外部」に任せている以上、製作著作は、
「外部」になってしまう。

自分たちのものではない…

造らされているのではないか? って
そんな風に思えたんです。

で、その時、思ったんです。 

これくらいの設計やったら、
オレにもできる!

それに、こっちで描いた方が
コスト計算もしやすい。

これからは、自分の思った通りの
ポリシーで描こう!

そこから
「ボクによる」設計がスタートしました。 

確かに、設計することには、
たいへんさもあります。 でも 、

自分が考えた通りのメカニズムや
仕組みでうまく動いたときの達成感と

それによってお客さんが喜んでくれた時のことを
思うと仕事上の張り合いがすごく生まれたんです。

もっと大きいのは、
自分のデザインができるということ。

当時の設計屋さんの描く機械って、
要求仕様や機能さえ満たせば、
外観なんて… 
って感じなデザインだったので
どうも外観がすきになれなくて。 w

デザインをコントロールできるという点も
メリットのひとつになりました。


そろそろ、代替わり?

設計することに新たな居場所を見いだしたのち、
もう一つの転機がやってきました。 

それは、〝社長〟になったことです。

社長への交代の経緯は、

世間体を考えたら、
そろそろ、代替わりしとこか?

という感じのノリでした。 w

うちの場合、よくある〝社長交代しました!〟
みたいなハガキを出してというのはやってないです。

照れくささもあり、
そういうノリが好きじゃなかったので、
社長交代の触れ(ふれ)はその年の年賀状で
済ませました。 

ちなみに、諸々の事情により、
現状は2名の代表取締役いう構成になっていて、
肩書は、
親父が【大社長】で、ボクが【社長】です。 

親父さんが、会長さんでは? 
と言われるのだけど、うちは【大社長】にしてます。 

遊び心があるでしょ? w

社長になって思うこと。

ところで、
社長になってから何が一番変わったのか?

強いてあげるなら『学び』です。

当時はといえば、ほぼほぼ、
家と工場の往復の毎日。 

付き合いの幅も、学生時代の友人と
前職時代の友人くらい。

どこかへ出向くとか出かけるというのは、
機械の設置か打ち合わせくか、または、
展示会を見に行くくらい。 

〝誰かから何かを学ぶ〟ということは
全くしていなかったし、考えもしなかったです。 

それに、
正直なところセミナーとかに行くという
雰囲気でもなかったです。 

許されなかったといえば、
ちょっとキツイですけど、親父の目線的に、

『そんなもん行く時間があるんやったら、
仕事しとけ!』

という一喝と
不機嫌なプレッシャーが…  滝汗  

まぁ、何を優先させるのか? 

と言われたら、
やっぱり仕事なわけですよね。 

恐らく、
ボクらの親世代が社長である場合は、
そんな感じのところが多いのでは? 
と思ったりします。 

もっとも、
『この勉強、絶対にやりたい!』という
こちら側の強い意志でも示さない限り、

そんな勉強必要ない。 
そんなことに金使うんやったら、
機械の動かし方でも覚えとけ。

と一蹴されるケースが
多いのかもしれないですよね。

加えて、うちの場合、親父が、
組合とか商工会などという類の集まりが
嫌いな人なので、
そういった団体には一切所属していなくて、
ほんと、外に出ること自体なかったです。

情報ソースと言えば、
お付き合いのある得意先と
たまにくる営業さんの話しくらい。 

なので、ほんとに狭い範囲の中で
過ごしていたということになります。

社長だからこそ、学びは大切。

社長になる以前のボク自身も

『セミナーって、どうせ講師の金儲けやろ…』

みたいな考えをもっていて。 苦笑

出かけるということに
めんどくささもあったりして、
外で勉強することにあまり魅力を
感じていなかったのは確かです。 

根っこでは、
人見知りするタイプである… というのも
少なからず、関係していると思いますが…

でも、
ボクが社長に就任することになって、
ボクの中でも親父の中にも

……… このままじゃアカンか?

なんていう感情が芽生えてきたんです。

ちょうどその頃、
我流で作ってたホームページをなんとかしたいな
って思いたって、ネットで調べてると
大阪市が運営している「大阪産業創造館(産創館)」主催の
ホームページ制作に関する塾があるのを知って、そこに入って。

そこからがご縁で、
経営者が集まるような勉強会へのお誘いなどもあって、
それ以降、セミナー三昧な日々を過ごすようになりました。

大阪産業創造館(産創館)では定期的に
起業家向けのセミナーや勉強会がリーズナブルな価格で
開催されいて、当時は、ほぼ毎週のように、
何かしらのセミナーに参加してました。

ほぼ、常連さんで、産創館のスタッフさんとも
顔なじみになるような感じ。笑

不思議なというか、
当然のことなのだろうけど、
そうやってセミナーに通いだすと
色んな情報が自分の前に飛び込んでくることになります。 

なので、産創館でのセミナーに限らず、
興味のあるテーマはジャンルを問わず、
開催場所を問わず、片っ端から受講してました。 

会計や税理など直接仕事に関連する事がらはもちろん、
マーケティングや、心理学、ホリスティック(代替医療)や
カラダのこととか… 

ほんと、興味あるものを片っ端から。w

勉強のお陰か、
講師として登壇する機会を頂くこともあります。

セミナー講師
日刊工業新聞社様主催 セミナーに登壇。

セミナーなどに行きだして一番よかったのは、
自分の職種以外の知り合いや仲間が
たくさんできたということです。 

前述したように、それまでは、
学生時代の友人や前職時代の友だちという
限られたつながりしかなかったんですけど、

大阪以外でのもっとたくさんのつながり… 
例えば、沖縄とか東北地方とかの
友だちもできました。 

むろん、情報や知識の幅も拡がりました。


アメリカへ行った時のこと。

何かに対して、
興味関心や好奇心を持つことはすごく
有意義なことだと思っています。 

それに関してのトピックは、
アメリカに行った時のことです。 

それはボク自身がかねてより構想していた
ある機構(メカニズム)でもあって、
お客様への提案の中でようやく実現できるという
案件でした。 

しかし…
開発を行い、リリースしたものの、正直、
ボク的にはあまりいい出来ではなかったんです。
 (冷汗)  

なんか、違うな… という感覚がありました。

その出来栄えに納得ができなかったボクは、
解決策を求めるべくいろんな情報を探しました。 

辿っていくと、
その答えがアメリカにありそうだとわかり、
もしかしたら、
今度開催の展示会に行けばわかるかもしれない! 

ということで衝動にかられて、意を決して
早速準備し、20数年ぶりにアメリカへ渡ったのでした。

単身で20年ぶりくらいのアメリカへ。

久しぶりのアメリカ。 

初めてのシカゴ。 

そして、
初めてのアメリカ大陸単身の旅。

PackExpo2016
Pack Expo 2016

今の時代は、スマホのおかげで、
ホント、便利ですよね。

便利だったのが、Uber。

今では、日本でもおなじみ? 
だと思うんだけど、Uber のおかげで、
移動がすごく楽でした。

空港からホテルまでの移動も、
その他の目的地への移動も、
Google Map と Uber で楽々移動。

ともあれ、展示会場では、
その馬鹿でかいスケールに圧倒されながら
お目当てのブースへ。 

そこで、いろんな情報を得てきました。

百聞は一見にしかず! 

やっぱり、自分の眼で見るのが一番! 
だと、つくづく確信しましたよ。

そうそう。

シカゴの展示会場は、
ミシガン湖の沿岸にある
マコーミックプレイスというところで
それはそれは、だだっ広いところ。

東京ビッグサイトもでかいなって
思うんだけど、それよりももっと、ずっと
バカでかい。

失敗だったのは、
皮ブーツを履いていったこと。

靴底のクッション性がなくって、
一日歩いて、次の日、脚がパンパンで
足の裏が痛くて痛くて… 
特に、かかとの痛みがひどくて、
歩くのもやっと,,,

かなり、きつかったです。 
滞在中に靴を買ったんだけど、遅しでしたね。


戻ってきて早々に、
新しい構想でのメカニズムを創りだすことができました。 
おかげで、
機体設計へのレパートリーを増やすことができました。


これからのこと。

〝町工場という製造業〟という業界に入って、
気が付けば、前職の勤続年数をゆうに超えました。

でも実は、
今でもちょいちょい引っかかるというか、
気になる言葉(遣い)があります。 

町工場のイメージ

それは親父がよく口にする 

われわれ、町工場は~』 とか、
われわれ、製造業は~』 とか

というフレーズ。 

そのフレーズがどうもボクには
ネガティブに感じてて… (^_^;)  

まぁ、
ボク自身の捉え方だけの問題
なのかもしれませんが、
町工場という言葉のニュアンスや響きが、

かねてのTVドラマなどで出てくる
あまり良くない印象を自分の中に
連想させるというのもあるのかなって。

具体的には、ねずみ色の作業着で、
いわゆる工員という役柄で、
概ね、事件に絡んでいるという感じ。

でてくる工場は、どこか薄暗くて、
作業者たちも、どことなくやさぐれてる。
気品がないというか、粗い、もしくは、
覇気がない感じ… 

あくまで、昔のドラマにでてくる
イメージなんで。笑

でも、まぁ、

町工場だから? 製造業だから?  
だから? なに?? 

って、思えば、特に気にはならん
のかもしれないんですけど。

でも、なんていうのか、モヤっとした
感情があるわけです。

そのニュアンスをどうお伝えすればいいのか、
ちょっと難しいんですけどね。(^_^;)

この先、何をしていきたいか?

前職をやめて、こっちに帰ってきて…
いつの間にか、前職で過ごした時間よりも、
機械づくりをしている時間の方が、
すごく長くなりました。 

そんな中で思うのは、

「機械だけよくしてもアカン。」

っていうことです。 

生産効率をよくしていくということには、
機械だけじゃない面も大いにあります。 

最近感じることは、なんだかんだと、
会社っていうのは

『人間関係』なんだよなってこと。 

ものづくりだけのアプローチは
限界にきてるのではないか? 

って感じるんです。

ある意味、
会社としての在り方みたいなのが
問われる時代になってきたのではないか? 

って。 

親父が若いころや、
この会社を創業した時分と今を比べると
町工場を取り巻く世界って、
大きく変わってきてます。

当然、経営する側からの見え方も
働く側からみた世界も、
変わってきてるんだと思ってます。

だからこそ、
人を含めた『現場づくり』が大切だなって。 

そのための
お手伝いをしていきたいと思ってます。

これからやっていきたいこと… 

それは、

気さくに相談にのれるような〝Cafe〟というか、
サロン的な場を提供したいなって思ってます。

誰かに話をすることで、
行き場のないもやもやを解消できるような場所。

もちろん、
それがビジネスとして Win-Win な
結びつきになれるような場になればいいなと。

また、自分の中の何かを話すことで、
アイデアだったり、次の行動が生まれるような空間。

あとは、
うちの機械のユーザーは女性が多いので、
女性目線での機械設計ができる環境を整備しなきゃと
思ってます。 

つまり、女性のエンジニアがほしいなと。笑 

でも、こればっかりはご縁なので、縁があれば… 


有限会社 大青鉃工
代表取締役 社長
佐薙 啓太郎